その日、僕は普段は乗らないバスに乗っていた。
今日は午前中病院で、午後から訪問予定の客先へと向かっていたのだ。
病院の最寄りバス停から、隣町の駅までは約30分。
電車もあるがこっちのほうが早く着きそうだし、何よりも今日は暑い。
バスの乗客はまばら。平日の昼間で電車に並走するバスだからこんなものか。
思ったよりスムーズにバスは進んでいるので、駅前のドトールでアイスコーヒーを飲む時間も取れそうだ。
事件が起こったのはその時だ。
事件は起こった
古い公営団地の前にあるバス停で、一人の爺さんが乗ってきた。
そして、乗り込むなり、妙に通る声でこう言った。
「私はペースメーカーを埋め込んでいます。ここから○○駅まで乗るので、その間皆さんお持ちの携帯電話の電源を切ってください。運転手さんアナウンスをお願いします。」
そして、爺さんは、乗車口のすぐ横にある優先席に陣取った。
一番後ろの席に乗っていた僕は、一瞬何が起きたかわからなかったが、その後聞こえてきた爺さんの大声ですぐに状況を把握することになる。
「前から2番目のあんた、携帯電話の電源を切りなさいと言ってるだろうが!」
サラリーマン風の男がiPhoneをいじりながら冷静に言い返す。
「携帯電話はペースメーカーに影響しませんよ。」
爺さんも間髪入れず言い返す。
「あんたはドクターか。なんで影響ないって言い切れるんだ!」
サラリーマン風の男は無視。
静まりかえる車内。そういえばバスはバス停に止まったままだ。
「ペースメーカーを埋めこまれたお客さまがいらっしゃいますので、携帯電話の電源はお切り頂きますようお客さまにお願い申し上げます。発車致します。」
運転手は慣れた調子でアナウンスし、バスは発車した。
あの爺さんは、毎日のようにこのバスに乗っては、全員に携帯電話の電源を切らせ、運転手にアナウンスをさせているのだろうか?
僕がバスの中で思ったこと
僕は、将来的にICD(埋め込み式除細動器)を埋込むことになる可能性が高いと医者に言われている。
ICDとは、AEDの埋込みバージョンで、日々の注意事項もペースメーカーと同じ扱いだ。
バスの後ろの方の席から、爺さんの方をぼーっと見ていたら、僕はICDを埋め込むことがだんだん怖くなってきた。
初めて病気の事を医者に言われたときには、かなりショックを受けたのだけれど、生活にどんな影響が出るのかを自分なりに調べた結果、いつか来る日を自分の運命と捉え、前向きに受け止めることにしたのだ。
でも、あの爺さんのような人たちが、実は世の中には山のようにいて、毎日のように周囲に過剰な対応を主張し続けているのだとしたら・・・
僕がICDを埋め込む頃には、ICDを埋め込んでいることを人には言えず、肩身の狭い不自由な思いで生活しなくてはいけない世の中になってしまっているのではないか・・・
もう降りるバス停だ。僕は席を立った。
爺さんの体は傾き、床から天井まで伸びた手すりについているPASMOのリーダーにもたれかかっている。すっかり寝てしまったようだ。
心臓ペースメーカーは、非接触ICカードリーダーから12*1センチメートル離れていないと、誤動作の危険*2がある。
僕はすこしニヤつきながらバスを降りた。
ペースメーカー:電車の「携帯電話電源オフ」再検討の動き
心臓ペースメーカーを誤作動させる可能性があるとして、電車の優先座席周辺で呼び掛けられている「携帯電話電源オフ」を再検討する動きが電鉄会社に出始めている。きっかけは今年1月、総務省が心臓ペースメーカーから携帯電話を離すべき距離について、規制を緩和する指針を出したことだ。一方で、影響を心配する声は患者らの間で根強く、電鉄各社は対応に頭を悩ませている。
(中略)
一方、ペースメーカー使用者らでつくる日本ペースメーカー友の会の日高進副会長は「影響はないと会員に周知をしているが、周知は行き届いていないし、
古くからの装着者の不安を拭いきれない。電源オフは継続してほしい」と慎重な意見だ。
http://mainichi.jp/select/news/20130928k0000e040247000c2.html
毎日新聞 2013年09月28日 より引用
技術革新によって、携帯電話がペースメーカーに影響を及ぼすことはなくなった。これは、喜ばしいことであるはずだ。
ペースメーカーが電磁波で誤動作して、本当に困るのは、はたして誰なのだろうか。
*1:当初15cmと記載しておりましたが、12cmの誤りです。謹んで訂正させていただきます。
*2:総務省 電波の医用機器等への影響に関する調査結果−ワイヤレスカードシステム等が植込み型医用機器へ与える影響について確認−